あらすじ
秋から冬へ
11月。東から昇る朝日に照らされて、紅葉した「ヤマ」は深いオレンジ色に輝く。静まりかえった早朝にあって、野鳥のさえずりだけが晩秋の「ヤマ」を暖かく包み込む。すでに畑に霜が敷き詰められ、間近に冬が迫っていることを予感させる。風が吹けば、木々の葉は舞い落ち、1ヶ月ほどすれば林床は大量の落葉で敷き詰められる。毎年、変わる事なく繰り返されるこの「ヤマ」の営みが、この辺りの農家の人たちの暮らしを支えてきた。
落葉掃き
年が明け、1月になると農家は落葉集めに忙しい。熊手で落葉を掻き集め、両手で大な竹籠に詰めていく。何故か昔の世界に逆戻りしたかのような錯覚にとらわれる。この辺りの言葉で「クズ掃き」と呼ばれる江戸時代から360年以上、毎年、欠かさず続けられてきた。若手農家の大木洋史さんは、両親と妻、そしてふたりの幼い子どもたちも手伝って、一家総出の作業である。集めた落葉は軽トラックで何往復もしながら堆肥置場へ運ぶ。一家総出で二週間かけて大量の落葉が集まった。
ルーツは江戸時代の元禄時代
江戸時代、五代将軍・徳川綱吉に仕えた柳沢吉保が川越藩主となり、この原野に農民たちを入植させ、開墾を始めた。一家族に五町分(約5ヘクタール)の土地を平等に与え、その時の入植者に落葉樹の苗を3本与え、半分の面積に雑木林の造成を勧めたのが始まりである。畑の開墾と同時に雑木林の育成を勧めたことで、農地と林が一体となった村が誕生したのだ。五町分の土地は細長い短冊形で、その区割りは当時のまま今に残って、他には見られない独特な景観が江戸時代の開拓の歴史を伝えている。
「ヤマ」の守り人
「ヤマ」を昔のように若返らせたいと、10年前から近所に暮らす成瀬吉明さんがボランティアとして仲間と活動を続けている。成瀬さんは独特な伐採技術を習得し、大掛かりな重機を使わずに作業が出来る道を開いた。今では「ヤマ」の管理に手を焼いている農家にとってなくてはならない存在だ。最近では横山進さんなど、成瀬さんから技術を学ぶ農家も現れた。
「ヤマ」が支える豊かな大地
なぜ、江戸時代から続く落ち葉堆肥農法が荒地を肥沃な畑に変えたのか。ふたりの土壌学者が初めて現地調査にはいった。そこには以外な事実が隠されていた。「ヤマ」はたくさんの野鳥がやってきて大量の糞を落としていく。それが作物を育てる大切な肥料となっているのだ。さらに地中に生息する小動物が落ち葉を細かく裁断しつつ栄養価のある堆肥となる。江戸時代から落ち葉堆肥を施し続けてきた畑の土は今まで見たこともない特殊な構造であることを土壌学者の田村教授は発見した。
江戸の伝統農法へのこだわり
サツマイモ農家の伊東蔵衛さんはこの地域の中でも特に江戸時代から伝わる農法にこだわる農家だ。三月、苗床に大量の落葉を投入し、その上に3年もの年月をかけて熟成させた完熟堆肥を敷き、種イモを地下の穴蔵から取り出して、ひとつひとつ丁寧にチドリに置いていく。伊東さんは「農業は百年一日(イチジツ)」だと言う。同じことをやり続けることで農家として生きていけるというのだ。
雑木が芸術作品に生まれ変わる
「ヤマ」を若返らせるために伐採された老木を工芸品としてよみがえらせようと活動する木工作家の高村徹さんは10年程前から武蔵野の森の木で家具を製作している。家具の素材としては適さない木々であるため試行錯誤の連続だが、農家の人達が大切に育ててきた「ヤマ」の大切さを伝えたいと上質な家具を誕生させ続けている出来た家具は高い評価を受け、「暮らしの中の木の椅子展」最優秀賞を受賞した。
「ヤマ」と共にある暮らし
ほんの少し前まで、それは昭和30年代の頃、「ヤマ」は日本人の暮らしを根底から支えていた。「ヤマ」と共にあった暮らしを現代に活かせないかと農家の横山進さんは荒れた「ヤマ」の復活に25年前から取り組んでいる。老木を伐採し、伸び放題となった下草を刈り、「ヤマ」を若返らせているのだ。伐採した木の幹は薪として利用し、細かい枝は燃やして灰してカリウム肥料として落葉堆肥に混ぜて畑に戻す。そんな生き方に共鳴する人々が横山さんの周囲に集い、一緒に活動を始めている。地域に眠っている資源を再び生かそうとの動きが今、加速している。
収穫の秋
地中深くまで成長する長芋を収穫すると肥沃な畑の土から養分を吸収しようと驚くほど長く大量の根が現れてきた。栄養分を吸収しようと必死に根を長く生やす生命力が落ち葉堆肥を施した畑で健康で美味しい野菜が育つことを証明している。そして季節は廻り、再び落葉の季節が訪れると、1年かけて熟成した落ち葉堆肥が畑に施される。江戸時代から毎年変わることなく続けえられて来た循環農業がこうして守られてきたのだ。